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【入管法改悪反対!連載①】ウィシュマさん死亡事件の背景にある入管法改正案ー前編ー

 「2023年1月、政府が通常国会において入管法改悪法案を再提出する方針を固めたことが報道で明らかになりました。2021 年にもこの法案が提出されていますが、同年3月6日に、名古屋入管の収容施設でスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさんの死亡事件が起きたことをきっかけに世論の強い反対を受け、政府は成立を断念しました。」(入管闘争市民連合の声明文より)

今回の連載では、なぜ入管法改正案に反対しているのか?その問題点を具体的な問題から明らかにしていきたいと思います。第1回は、2021年3月6日に名古屋入管で起きた、スリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさんの死亡事件からについて、なぜ元気だったウィシュマさんが約3か月で体調悪化し死亡してしまうのか、その背景にある入管行政についてお話していきたいと思います。

   

ウィシュマさんが来日し、収容される経緯

 ウィシュマさんが日本に来た理由は、日本の子どもたちに英語を教える先生になりたいという夢をかなえるためでした。スリランカでも英語の先生としてスリランカの子どもたちに英語を教えていましたが、日本は良い国だから、そんな国に住む子どもたちに英語を教えたいと思っていたそうです。日本語学校で勉強していた当時、地元の小学生と交流したこともあったようですが、子供たちから親しまれる先生でした。

 以下は、現在も続いている国賠訴訟の第1回口頭弁論の意見陳述における、ウィシュマさんの妹であるワヨミさんの発言です。


ワヨミさんの意見陳述(一部抜粋)

母にとって、姉は頼りになる長女でした。父が早く亡くなりましたので、 母は、私たちの世話を姉に任せて、外で働きました。母と姉は、「戦友」のようなものでした。

私とポールニマが大人になって、姉が「留学したい」と言い始めたとき、母は最初、反対しました。大切な娘を外国に行かせるのが心配でしたし、留学には、お金もとてもかかったからです。けれども、母は、姉の熱意に負けました。それに、ずっと私とポールニマの世話をしてくれた姉に、本当に好きなことをさせてやりたかった。姉が日本で夢をかなえることが、私たち家族にとっても、夢になりました。

母は、「日本なら、安全な国だから大丈夫だね」と言いました。私たちは、自宅を担保にお金を借りて、姉の学費を作り、姉を日本に送り出しました。


 こうして、ウィシュマさんは2017年、留学生として日本に来ました。


 なぜ、留学生として来日したウィシュマさんが、名古屋入管の収容施設に収容されたのでしょうか。

 ウィシュマさんは来日して日本語学校に通っていました。また知り合ったスリランカ人の男性と同棲をしていました。しかし、相手の男性が次第に暴力をふるうようになり、ウィシュマさんの銀行通帳やカードも奪われていたそうです。ウィシュマさんはアルバイトをしてなんとか日本語学校に通い続けようとしましたが、出席日数が足りず、除籍処分となってしまいました。日本語学校をやめたことで留学生ビザを失い、オーバーステイの状態となりました。

オーバーステイになったあとも、しばらくウィシュマさんは男性と暮らしていましたが、男性からのDV被害から逃れるために早くスリランカに帰りたいと、オーバーステイが発覚してしまうのを覚悟して自ら警察に出頭しました。そして、ウィシュマさんは2020年8月に名古屋入管に収容されました。


収容されてから、体調悪化の経緯

 ウィシュマさんを支援していた支援団体STARTがウィシュマさんに初めて面会をしたのは、12月上旬です。このときは、ウィシュマさんは特に目立った病気はなく、元気な様子でした。なぜ、約3か月の間に体調が悪化してしまったのでしょうか。


 ウィシュマさんは、収容された当初はDV被害を受けていた男性から逃れるために、帰国することを望んでいました。しかし、その男性から、スリランカに帰ったらウィシュマさんに「罰を与える」と書かれた手紙が送られてきたことによって、「帰国したら殺される」という恐怖を感じながら収容生活を送っていました。ウィシュマさんは帰国できない深刻な事情を抱えていたのです。しかし、もともと帰国すると伝えていた名古屋入管に「帰らない」と言い出せず、どうしようかと、不安な日々を送っていました。

 STARTとの2回目の面会のとき、ウィシュマさんは、「帰国したくない、日本に残りたい、どうしたらいいですか」と、苦しい胸の内を明かしてくれました。STARTが全面的に支援することを伝えると、ウィシュマさん満面の笑みを浮かべて、全身で感謝と安堵感を表現していました。

 しかし、その面会の翌日、ウィシュマさんが、入管職員に対して、「スリランカに帰らない、日本に残る」と伝えた途端、職員の態度、表情は一変しました。「帰れ、帰れ、ムリヤリ帰される」と、何度も何度もウィシュマさんの部屋に来て帰国圧力をかけるようになりました。ウィシュマさんからこわくなったから面会に来てほしいと、STARTに電話がかかってくるような状況になってしまいました。

 ウィシュマさんにとって、この帰国圧力は、明日にでもスリランカに帰されてしまうんじゃないかという死刑宣告であり、かなりの恐怖、孤立感を深めていきました。これが精神的なプレッシャーとなり、12月後半から体調を崩していきます。


体調悪化から、亡くなるまで

 1月中旬からは特に体調悪化が顕著になりました。食べても吐いてしまい、体重が減少していきました。1月28日には吐いた物に血液が混じっており、ウィシュマさんは死んでしまうのではないかと恐怖を感じ、職員に病院に連れて行ってほしいと頼みました。しかし、職員は、「一度庁内の医師に診てもらってから」と、要求を認めませんでした。STARTにも電話がかかってきました。ウィシュマさんは血を吐いたことに衝撃をうけ、パニックになっている状態でした。

 結局、病院に行ったのは1週間後の2月5日でした。胃カメラ検査をしましたが、結果、「異常なし」と診断されました。このときウィシュマさんを診察した医者は、ウィシュマさんが食事や薬についても吐いてしまうということを報告で聞いていましたが、問題なしと診断をして、胃カメラの結果だけを見て薬も飲めるはずだと、薬を処方しました。医者から入管への報告書には「内服できなければ、点滴・入院」と書かれていました。しかし、ウィシュマさんは薬を飲んでも吐いてしまい、入管が点滴・入院をさせることもありませんでした。

 ウィシュマさんの体調の悪化のため、1月後半から、入管は「保護」を目的として、共同部屋から、24時間監視可能な単独室へウィシュマさんを移動しました。しかし、保護されてもウィシュマさんの体調は回復することなく、むしろどんどん衰弱していきました。2月にはいると、自力で歩くことすら困難になり、車いすで移動するようになりました。また、面会室にバケツを持ってくるようになりました。面会の途中でも、発作のような嘔吐を繰り返す状態で、面会30分も耐えられませんでした。だれが見ても、収容していいような状態ではありませんでした。

 しかし、入管は、37.5度以上の熱が続いても全く問題にせず、2月15日の尿検査の結果では、飢餓状態であることを示す数値が出ていましたが、それも隠してしまい、ごはんを少し食べたから大丈夫、OS―1という経口補水液を与えているから大丈夫と言って、点滴も、入院も、仮放免を許可して収容を解くこともしませんでした。

ウィシュマさんへの対応も、例えば、ロッカーに荷物を取りに行くから手伝ってほしいと職員に頼んでも、「リハビリだから自分でやって」と介助もつけずにウィシュマさんを1人で歩かせました。ウィシュマさんは壁伝いに歩いて何度転倒してしまっていたそうです。また、ベッドから落ちて、起き上がれなくなったウィシュマさんを職員は服を引っ張って「頑張って」というだけで、結局ベッドにはあげず、ウィシュマさんを床に寝かせたまま放置したこともありました。

 ウィシュマさん死亡事件後、ウィシュマさんが収容されていた部屋の監視カメラの映像がご遺族、ご遺族の代理人弁護士、国会議員に部分的に開示されています。そこには、亡くなる2,3日前の、首も座っていない、自力で起き上がることもできないウィシュマさんに、無理やり食事をさせようとする職員の様子が映っていました。口に食べ物を含んでもすぐに吐いてしまうウィシュマさんに、それでも「頑張れ、頑張れ」と食べ物を口にいれ、食べて吐いてを繰り返すような状態です。

 まるで、拷問であり、人を扱っているようには到底思えません。ウィシュマさんの妹さんたちも映像をみて、姉は動物以下の扱いをされたとおっしゃっています。

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