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【入管闘争市民連合パンフレット「なぜ入管で人が死ぬのか」連載⑥】

更新日:2023年1月23日


黙認されていた非正規滞在者

 在留資格を持たずに日本で暮らす外国人を「非正規滞在者」「非正規滞在外国人」といいます。在留を認められた期間を過ぎて超過滞在(オーバーステイ)になっていたり、あるいは入管法に定められた手続きをとらずに入国してその後も滞在していたりという状態を指す言葉が「非正規滞在」です。

 日本政府はある時期からこれを指す「不法滞在」という言葉をさかんに使うようになったのですが、非正規滞在外国人に対して集中的な摘発を始めたのは2000年代の前半です。あきらかにそれ以前は、非正規滞在を一定程度黙認するというのが(「黙認せざるをえなかった」ということかもしれませんが)政府方針でした。中小零細の製造業をはじめとして非正規滞在者の労働力に依存する職場が多くあったからでしょう。

 図4は入管庁が公表している「不法残留者数」の推移をグラフにしたものです。「不法残留」というのは超過滞在(オーバーステイ)を指す入管用語です。


    図4 「不法残留者」数の推移

1993年1月 29.9万人

・・・・・・・・・・・・・・・・

2001年1月 23.2万人

2002年1月 22.4万人(8千人減)

2003年1月 22.1万人(2千人減)

2004年1月 21.9万人(2千人減)

2005年1月 20.7万人(1万2千人減)

            ( ↑ 2004 年の入管行政の大転換の結果です)

2006年1月 19.4万人(1万3千人減)

2007年1月 17.1万人(2万3千人減)

2008年1月 15.0万人(2万1千人減)

2009年1月 11.3万人(2万7千人減)

2010年1月 9.2万人(2万1千人減)

2011年1月 7.8万人(1万4千人減)

2012年1月 6.7万人(1万1千人減)

 (法務省入国管理局『出入国管理』より作成)


 1993年がピークで 30万人弱ぐらい。その後、減っていきますけれど、90年代~00年代初頭にかけて20万超の人が非正規滞在の状態で日本で暮らしていました。2003年7月に「外国人登録 不法滞在者、手続き急増」という新聞記事が出ています。


         ビザを持たずに国内で暮らす「不法滞在」の外国人が、外国人登録手続きをして

        登録証の交付を受けるケースが増えている。昨年末の時点で 1万7515人が登録し、

        90年に比べ7倍にふくらんだ。滞在が長期化し、事実上定住している人が、生活の

        様々な場面で必要となる正規の登録証を求めているためだ。

                          (2003年7月11日付『朝日新聞』朝刊)


 外国人登録制度は、あとで述べるように、この9年後の2012年に廃止されるのですが、 当時の制度のもとでは在留資格なしでも外国人登録はできました。子どもが学校に通う年齢になったり、銀行口座を作る必要が生じたりといったときに、居住地の市役所などに行って登録証を交付してもらうわけです。この2003年の時点でバブル初期から16,7年ぐらいたっていますから、日本社会にすでに深く定着している人は相当数いたのです。そのことが非正規滞在者の外国人登録の増加ということにあらわれていると考えてよいでしょう。


「不法滞在者半減5か年計画」

 2003年には、「不法滞在者」の摘発強化の必要性を述べた2つの文書が出されます。10月には法務省入管、東京入管、東京都、警視庁の四者による「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言。12月には政府の犯罪対策閣僚会議による「犯罪に強い社会の実現のための行動計画」が出ます。この2つの文書はいずれも、「不法滞在者」は 「犯罪の温床」だという非常に差別的な決めつけを述べ、その摘発強化が必要だとする内容です。この2つめの「行動計画」で2004年からの5年間でいわゆる「不法滞在者」を半減するという計画がぶちあげられるのです。

 当時の状況をよく伝えている新聞記事があります。日本経済新聞の「不法滞在取り締まり元年 黙認のツケ、社会に 外国人頼み零細企業直撃」という記事です。


     ……「取り締まり強化元年」(捜査幹部)と位置づけた取り組みは、11月末時点

     で、昨年1年間の摘発人数約3千人(入管難民法違反容疑のみ)を大幅に上回る4千

     5百人以上(同)の摘発につながった。

      一連の取り締まりは外国人労働者の雇用が構造的に組み込まれた零細企業を直撃

     した。台東区の工場関係者は「外国人の不法滞在や就労を黙認していた面もあるは

     ず。摘発は当然だが、働き手を再び欠いた状態でどう産業をつないでいけるのか」と話す。

       摘発する側にとっても「すべてが手探りの状態(捜査幹部)」。大量摘発に対応

     できる収容施設や職員をいかに確保していくか、摘発を避け、首都圏から地方に逃

     避した外国人の把握や取り締まりをどう進めていくか。

      持ちつ持たれつの関係で日本に根付いた安価な労働力。取り締まり元年は「黙認

     のツケ」を日本社会に突きつけている。

                     (『日本経済新聞』2003 年 12 月 24 日夕刊)


 2003年を「取り締まり強化元年」と位置づけていたという警視庁の捜査幹部の証言は興味深いものです。この年にかつてない規模での摘発がおこなわれたこと、またそれが非正規滞在者の労働力に依存する零細企業に大きな打撃を与えるものであったことがわかります。

 当時の新聞記事は、この摘発には外国人登録の情報が使われたことを伝えています。


        集中摘発を可能にするため入管当局は、正規の在留資格がない外国人にも交付さ

      れる「外国人登録証」の申請情報を、初めて本格的に活用した。これに対し、外国

      人問題に詳しい大貫憲介弁護士は「行政情報は、提供者の意図と違う目的に勝手に

      転用してはならない」と批判している。

     (2003 年 10 月 22 日付『朝日新聞』朝刊「登録情報使い不法滞在者摘発 1カ月で 1643 人」)


 それまでやっていなかった外国人登録情報を活用しての摘発にこのとき初めてふみきったというところに、政府の方針転換があらわれています。2003年、あるいは半減計画の最初の年にあたる2004年のあたりで、従来の非正規滞在外国人を一定程度黙認するというものから、徹底してこれを取り締まるという方向に政策転換がなされたことは、長期間日本で暮らす非正規滞在外国人の証言からも裏づけられます。

 1980年代末、20歳のとき渡日した非正規滞在のイラン人は、次のように述べています。 「警察がパスポートを見せろと度々尋ねてきた。パスポートを見てオーバーステイと分かっても摘発しなかった。街の祭りの後片付けを手伝っていたときには、警官は、頑張れよ、と声を掛けてきた。だからずっと日本に居られると思っていた。ところが2005年に、突然、 不法滞在で逮捕された。帰れというならもっと若い時になぜ言ってくれない。」

  また、同じバブル経済期に渡日した別の非正規滞在外国人は「警察に職務質問を受けて在留資格がないと分かってもパスポートの期限が切れておらず、工場で働いていることが分かれば『しっかり働けよ』と言って捕まえようとしなかった。だから真面目に働き、税金を払っていれば日本にずっといられる、と思った」と述べています。


(次回 「集中摘発と在留特別許可で達成された半減計画と送還忌避者の増大」)


 


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